西新宿よろよろ日記

2005年7月

紫陽花

西新宿よろよろ日記

西新宿よろよろ日記
みなさま、如何お過ごしですか?

ティーファクトリー次回公演は2006年2月。

公演がない期間、でもなぜかとっても暇だという感じもなく

ゆっくりじっくり公演準備中のこの期間

「今月のティーファクトリー」をお届けしてみることにしました。

毎月1日更新予定。お楽しみに〜

西新宿の紫陽花

西新宿の紫陽花はくすんでる〜

*

June 2005

6月カレンダー

入梅?雨、晴れ、暑い… 目まぐるしい日々に忙殺されていても、時の流れを感じさせてくれる四季、花々は良いものですね。

'98年3月「名づけえぬもの」の公演の時、演出家が「ホンモノのカタツムリを舞台上で並べたい」と言って、調べたことがあります。

相手も生物ですからご都合があり、三月はお休み中なんだそうです。あちこちの研究所のおじさんに「その公演、六月にしたら?」と言われたことを思い出します。

そういえばその季節でも沖縄にはいたな。空輸するのは無理と諦めたのでしたが。でもさて六月、都会ではカタツムリ見なくなりましたよねー?(この写真のカタツムリはその時の小道具の生き残り)

さて、こんな梅雨の中何をしているかと言えば…

川村毅監督・短編映画「赤いくつ」撮影中!!

赤い靴の女の子像前のアリス

「赤い靴の女の子」像の前のアリス

映画を撮りたい〜! 映像作品を創りたいぃ〜!(言いつづけて○年)

じゃ今時間あることだし、とにかく撮っちゃおう〜! 但し30分以内ね、予算ないから。何撮りたいの?

30分〜?(不満げ)じゃあ…横浜の野毛、和親坂とか、田端の路地とか、新宿の路地とか記憶の風景ね。

ほほう。あ! じゃあ、「ハムレットクローン」ダンサーの柊アリスさんにご協力してもらって、踊りつづける女を追うお話しにして、その町々を巡るってのは? 横浜だから、山下公園の「赤い靴の女の子」にひっかけて。アンデルセン生誕200周年らしいし。

ふむ。物語はそういう凡庸なやつでいいんだ。

(むぅ)それで「赤い靴の女の子」像のところで異人さんに止められるけど、振り払って踊りつづけるの。きゃっきゃっ。

じゃ、笠木にもでてもらおう。アラブ人(異人さん)みたいだから。アラブ人が赤い靴を捜してるって話で。

わっはっは!

…と、ゆる〜く始まったこの企画。

ふんふんと安請け合いしたものの、ADのワタクシが赤い靴を捜す最初の登場人物になってしまった!

私の小さい頃はどこにだってあったと思うのだけど、ストラップ付のエナメルの赤い靴、何処にも売ってない!!!

色々な人にお願いして、なんとか白い靴をget。染め方を教わる。

赤くなるかなぁ…

笠木に電話。

「いいですよ〜。でもアラブ人?? ターバンとか用意しますか?(…いや、そのままでアラブ人に見えるかと) 赤い靴に色塗り? あ、ぜーったいやらないでください。僕やりますから。あなた、DMの封だって糊でべちょべちょにするんですから」

わーい、赤い靴になった!

撮影快調!?

川村毅/カメラ/映画館/ポップコーン…人格変わる(少年化する)シンプルアイテム。

みんな雨でびしょぬれの中、川村監督嬉々としてねばる。

踊る、踊る、アリス。

怪しいクルー〜

ジェーン人形も久々出演

雨の中、暑き中、お疲れさまでした!

柊アリスのダンシング・スケジュールはこちらをcheck!

最初の「子供」役を演じてくれた也子ちゃん。職業:小学三年生。これがデビュー作?

今あちこちで活躍中の舞台美術家・加藤ちかさんの愛娘です。ちかさんは大学生の頃は劇団にいました。

「ねぇねぇ、オカアサンって昔から怖かった?」

ちかさんとも長い付き合いですが、こんな写真も何年かしたら笑っちゃうかもね。

「五年生になったとき見たって笑っちゃうよー」

小さなお手手つないで、学校のお話し聞いて、ほのぼの楽しいひと時でした。

ありがとう〜也子ちゃん、ちかさん。

上映機会募集中!!(まずは編集がんばってください…)

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6月の観劇diary

「ノラ」シャウビューネ
学生時代、戯曲のバイブルとして研究させられたせいも
あってか、女性という視点からもあってか、これはワタクシ
評価しかねます。

「火の顔」シャウビューネ

「アルトゥロ・ウイの興隆」ベルリナー・アンサンブル
岩淵達治先生の和訳、訳注、解題勉強していってよかった。
素晴らしい舞台でした。

月の観劇予定

「キスへのプレリュード」ル・テアトル銀座
「鷹の井戸」観世榮夫出演
「新編・我輩は猫である」シアタートラム
「ラストショウ」パルコ劇場
「キレイ」シアターコクーン
…暑くなると調子悪くなってしまうのでこんなに観れないかな …
+
…ワタクシが長年劇団を維持するために、太腕が細腕になるくらいお金の苦労をしてきたことは、内部に関しては終わったことですし、最終的には制作として自分の責任で作った赤字のためですし、もういいんですけど。

外部の皆様には今でも本当に感謝しています。

かつて、ある舞台の装置代が払えなかったことがありました。それでも次の公演の装置を作ってくれた大道具会社さん。

朝、劇場に入るトラックに同乗していた、その会社の営業取締役さんに川村が駆け寄り、「ありがとう」と言った、あの光景は辛かったな。

自転車操業、それでも追いつかなくて、個人の収入、生活費も投入していたので最後には自宅の家賃が滞るようになり、月末不動産屋さんに謝りにいくのが恒例となっていました。

小さな不動産屋さんで、まだ事務員の方がいる間は厳しい社長でしたが、夕刻伺う頃にはもう一人でビールなど飲んでいて「とにかく田舎に引越しなさいよ」と言われました。

いわゆる全共闘世代とおぼしき社長は、ある時は「右と左」について語り、「結局、右も左も同じ。人間弱くなるとどちらかに寄る」と言い、それなりの彼の結論が「自然に還る」ということのようでした。

家賃の負担を軽減するため、だけではなく、疲弊している私への労いだったのかもしれません。ある時は「地球は誰のものか」などと語り、要するに酔っ払いの演説で会話ではないのですが、もともとは家賃滞納のためにやってきた私を責めるでもなく、楽しいというのも可笑しな話ですが、そんな時間でした。

ある時はゴキゲンにやおら図面を取り出し、それはまぁ可愛らしい山のロッジのような造りで「朝はここに小鳥が来て、庭のここは畑にして、これは娘の部屋で」と話し出します。聞けば、自分の家の計画だと言い、緑に囲まれた随分と郊外にこの家を建てる計画なのだと言います。「妻と娘が口聞いてくれなくって… ここで自然に囲まれて仲良く、人間らしくやり直すんだ」と。

暫くしてご助言に従い、私は郊外への引越しを決めました。人生で最も不便な地のそこは、せめて惨めな気持ちが和らぐように、ボロいけれど広々とした部屋にしました。

全ての荷物が出て、最後の社長チェックの日、良い天気でした。「これは置いていきますから」それは私の両親が買ってくれたエアコンで、切なかった。社長はじっと点検して「まだ綺麗だね。お部屋もとても綺麗に使ってくれた」と言い、以降何も連絡はなく契約は終了しました。深く切なく、感謝しました。もう家賃の滞納分は礼金・敷金の満額に至っていたからです。

辛かったのか、それから何年もの間その町へ近づくことができませんでした。

今、諸般の事情からようやく引越ししようかと! 出来ればその町に戻りたく、8年ぶりにその不動産屋さんを訪ねました。覚えているかな、と思いつつ、明るい心持ちで。

はたして社長は、あの別れた日から二年後、脳梗塞で急逝していました。

あの家で自然に囲まれて暮らす時間は少しでももてたのだろうか。
あの夕暮れの、とぼとぼ謝りに行った日々と、社長の励ましと、色々なことが思い出され、かなしかった。

訃報がつづきました。

集英社「すばる」前編集長の片柳治さんが食道癌で55歳の若さでお亡くなりになりました。

31年ぶりだかの芥川賞作家、しかも若い女性作家で話題になった作品を「すばる」から輩出し高い評価を得た方です。

私にとっては20年来変わらず、穏やかな、いつも優しい笑みで劇場にやってきてくれる人。ほぼすべての作品をご覧戴いていました。

芥川賞の騒ぎで、川村毅6年ぶりの小説「夜」は掲載が延期となり「まだですかぁー ほんとに載せてくださいよぅー」と勝手言うワタクシにも穏やかに。

「お詫びに表紙に大きく載せておいたよ!」とのお言葉通り、文芸の世界から再び手を差し伸べてくれました。

最後、片柳さんと仕事が出来てよかった。

編集部の方から訃報のお電話を戴いた時、まさしく走馬灯のように駆け巡った僅かな記憶、編集者の皆さん作家の皆さんと過ごした、夕方になっても帰らないコドモのように遊び歩いた、笑った、しょっちゅう揉めてた日々。片柳さんはいつも穏やかな笑顔。

そんな思い出話はゆるされればまたいずれ。

ありがとう。お疲れさまでした。安らかに。

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フクロウの置物

yoshiko hirai,producer

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