…ワタクシが長年劇団を維持するために、太腕が細腕になるくらいお金の苦労をしてきたことは、内部に関しては終わったことですし、最終的には制作として自分の責任で作った赤字のためですし、もういいんですけど。 外部の皆様には今でも本当に感謝しています。
かつて、ある舞台の装置代が払えなかったことがありました。それでも次の公演の装置を作ってくれた大道具会社さん。
朝、劇場に入るトラックに同乗していた、その会社の営業取締役さんに川村が駆け寄り、「ありがとう」と言った、あの光景は辛かったな。
自転車操業、それでも追いつかなくて、個人の収入、生活費も投入していたので最後には自宅の家賃が滞るようになり、月末不動産屋さんに謝りにいくのが恒例となっていました。
小さな不動産屋さんで、まだ事務員の方がいる間は厳しい社長でしたが、夕刻伺う頃にはもう一人でビールなど飲んでいて「とにかく田舎に引越しなさいよ」と言われました。
いわゆる全共闘世代とおぼしき社長は、ある時は「右と左」について語り、「結局、右も左も同じ。人間弱くなるとどちらかに寄る」と言い、それなりの彼の結論が「自然に還る」ということのようでした。
家賃の負担を軽減するため、だけではなく、疲弊している私への労いだったのかもしれません。ある時は「地球は誰のものか」などと語り、要するに酔っ払いの演説で会話ではないのですが、もともとは家賃滞納のためにやってきた私を責めるでもなく、楽しいというのも可笑しな話ですが、そんな時間でした。
ある時はゴキゲンにやおら図面を取り出し、それはまぁ可愛らしい山のロッジのような造りで「朝はここに小鳥が来て、庭のここは畑にして、これは娘の部屋で」と話し出します。聞けば、自分の家の計画だと言い、緑に囲まれた随分と郊外にこの家を建てる計画なのだと言います。「妻と娘が口聞いてくれなくって… ここで自然に囲まれて仲良く、人間らしくやり直すんだ」と。
暫くしてご助言に従い、私は郊外への引越しを決めました。人生で最も不便な地のそこは、せめて惨めな気持ちが和らぐように、ボロいけれど広々とした部屋にしました。
全ての荷物が出て、最後の社長チェックの日、良い天気でした。「これは置いていきますから」それは私の両親が買ってくれたエアコンで、切なかった。社長はじっと点検して「まだ綺麗だね。お部屋もとても綺麗に使ってくれた」と言い、以降何も連絡はなく契約は終了しました。深く切なく、感謝しました。もう家賃の滞納分は礼金・敷金の満額に至っていたからです。
辛かったのか、それから何年もの間その町へ近づくことができませんでした。
今、諸般の事情からようやく引越ししようかと! 出来ればその町に戻りたく、8年ぶりにその不動産屋さんを訪ねました。覚えているかな、と思いつつ、明るい心持ちで。
はたして社長は、あの別れた日から二年後、脳梗塞で急逝していました。
あの家で自然に囲まれて暮らす時間は少しでももてたのだろうか。
あの夕暮れの、とぼとぼ謝りに行った日々と、社長の励ましと、色々なことが思い出され、かなしかった。
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訃報がつづきました。
集英社「すばる」前編集長の片柳治さんが食道癌で55歳の若さでお亡くなりになりました。
31年ぶりだかの芥川賞作家、しかも若い女性作家で話題になった作品を「すばる」から輩出し高い評価を得た方です。
私にとっては20年来変わらず、穏やかな、いつも優しい笑みで劇場にやってきてくれる人。ほぼすべての作品をご覧戴いていました。
芥川賞の騒ぎで、川村毅6年ぶりの小説「夜」は掲載が延期となり「まだですかぁー ほんとに載せてくださいよぅー」と勝手言うワタクシにも穏やかに。
「お詫びに表紙に大きく載せておいたよ!」とのお言葉通り、文芸の世界から再び手を差し伸べてくれました。
最後、片柳さんと仕事が出来てよかった。
編集部の方から訃報のお電話を戴いた時、まさしく走馬灯のように駆け巡った僅かな記憶、編集者の皆さん作家の皆さんと過ごした、夕方になっても帰らないコドモのように遊び歩いた、笑った、しょっちゅう揉めてた日々。片柳さんはいつも穏やかな笑顔。
そんな思い出話はゆるされればまたいずれ。
ありがとう。お疲れさまでした。安らかに。
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