もっと暗い気持ちが残るかと思って伺ったのですが、昨今の世の中に対して、自分でも感じていた事柄が、川村さんの作品となり、その問題提起を「希望」としてキャスト・スタッフの方々、観劇にいらっしゃった方々と共有した、という感覚になりました。 *
殆どが「夏」を舞台とした場面であるはずなのにじっとりと汗ばんだ夏の香り ではなく開いた窓から夜が歩み入ってくるような底冷えを客席で感じていました。
花火の光が一瞬夏を呼び込んだかと思えたのもつかの間、短い光が消えた後は元の闇が待っているだけなのは、登場人物達の人生と重なってくることなのかもしれません。
江守さんは、息子を失った過去や孤独だけでなく、殺人者の心が書かれた哲学書に関ったという所まで「あるかも」と納得させるようなさすがの存在感でした。
手塚さんはひたすら捉えどころのない恐ろしさがあり、高橋さんの上手さが戯曲にリアリティを感じさせます。
鳥屋と夫が少しづつ心を開いてゆく場面は、相手への警戒心や自分の殻を決して捨て去ってはいないのに、どこかに共通の記憶がある2人が、ビールのホロ酔いもあいまって近づいてゆくという状況が、ごく自然に運ばれていて、お2人に感動しました。
餌屋の飯尾さんは、1つ1つを取り上げれば、実はアブナイ人かも。という所を全く普通の人の雰囲気で押し通すことで、逆に「考えてみれば自分の周りでも」とヒヤリとする後味が残りました。
日常生活において、隣人・大家・店子・店主・業者など、人は各々の「役割」を演じ、また、多くの「役割を演じる人」が自分の生活に関っている。そんな人と人の関係が現代では「普通」のつきあいになっています。それは、親子という肉親の間においてですら同様でしょう。
記号として存在していた人が一個の人間として見えてきた時こそ、楽しみや喜びが生まれてくるのだと思うのですが、今回の登場人物達にとっては、その内面への踏み込みがかさぶたを剥がすような痛みへと繋がってゆく展開になっています。
川村さんの挨拶文にもあったように、「否応なしに抱えることになった精神の複雑化」「それに反比例するかのような思考回路の単純化」にとりたてて気づくこともなく、毎日を送る現代人の固まった心を、何かが揺り動かす事ができるのだろうか、という問いかけをされている気がしました。
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