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川村毅パリ外遊中につき、懐かしいパリの思い出を取り出してみました。

結局パブリッシュされなかった対談なので、通訳者、本人の補校等は入っていない、当時の記録のままの原稿です。17年経って、叶っていること、まだ叶っていないこと。時代を感じる諸々もあり……、お楽しみください。

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1987年10月20日 パリ

川村毅27歳
初の海外ツアーとなる筈だったパリ公演を断念せざるをえなかった頃

ジャン=ジャック・ベネックス40歳
「ベティ・ブルー」がこれから日本で公開されるがキャンペーンでの来日が叶わなかった頃

パリ6区。
少し緊張の面持ちで、でもきっと若々しく生意気な顔でパリのオフィスを訪れた川村を、
穏やかな笑顔のべネックス、そして旧知の友のように飛びつきじゃれる彼の愛猫のアビシニアンが迎えてくれた。

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ベネックス ようこそ! パリは初めてですか?
川村 二回目になります。とても好きな街です。日本にいらっしゃったことは?
ベネックス 三回、最近では2、3年前に行きました。東京はとても好きです。今回「ベティ・ブルー」と「溝の中の月」のキャンペーンのために行くはずだったのにダメになり、怒って配給会社とケンカ中です。いつ封切られるかも連絡がない。……日本の観客は「ベティ・ブルー」をどう思うでしょう?
川村 既に公開された「ディーバ」によりあなたの名前は知られています。熱烈なファンももういるでしょう。両作品とも東洋的なストーリー、ビジュアルで日本人が入り込みやすい、浮世絵的な感じもしますね。
ベネックス そう! 私もそう思う。だから是非行きたかったのですが……。 日本に期待しているし現場の人達とも出会いたいのです。
川村 私も今回パリでの公演ができなくなってとても残念。正直、憤りも感じています。
ベネックス 今回ダメになったのはレオタール(文化相:当時)の保守的な文化政策のせいかもしれませんね。
川村 パリは刺激的でとても期待していたのですが。東京には何を期待しますか?
ベネックス 複雑ですね、精神分析に関係あると思う。子供の頃から日本に興味がありました。コロニアリズム(植民地主義)とエキゾチズムと関係があると思います。というのはコロニアリズムは今は批判されていますが――私は今40歳ですが――私の子供の頃は大衆的イメージ、魔法的雰囲気を感じていました。自分が知らない世界としての東洋、アフリカ……。日本への興味はまずは神秘的憧れでした。
川村 具体的な日本との関わりは?
ベネックス 日本映画、とても好きです。そして美術、お寺などの建築、浮世絵。5年間合気道もやりました。古典的日本、憧れ、‘60年代学生の思想などが相まって、一寸ナイーヴですが禅宗に没頭したこともあります。そう「ディーバ」の時たまたま岸恵子さんと隣の席になり、日本女性の友人もできました。

川村 パリ生まれですか?
ベネックス パリ生まれ、パリ育ちです。
川村 私も東京で生まれ、東京で芝居を創っていますが、同世代で演劇集団を持っているのが多いです。映画という手段をとるのが難しいからでもあるのですが。私は東京を窮屈に感じることがあって外へ出て行きたいのです。東洋への憧れというのはヨーロッパの窮屈さがあるのですか? パリからもう何も生まれないから東洋へ? 作家でも多く見受けられるようですが?
ベネックス おっしゃることはよくわかります。ただフランスの芸術家としてフランスの社会、芸術が閉鎖的とは思いたくないし、思わない。フランスの芸術家にある問題点としては、まずここに住んでいる限り待遇が良すぎること! 

私の他国への興味は、フランス以外の文化を体験したいということです。趣味と経験の範疇ですが、仏教の寺、アフリカのサバンナの美は同じ価値を感じています。浜辺の風景、酒、風俗、全てに興味を持っています。

日本は確かに閉まった箱、ミクロコスムの共同体という気はしました。日本の歴史として工業革命は大成功していますが芸術革命はそこまできていないのでしょう。自分たち、自分に質問するという反省するところまできていない。ただ若い世代がこれではいけないと自分たちのことを思っていることで悲観的ではありません。工業革命成功の力のある国ですし。日本の芸術家は外国で認められて、それで日本で認められるというように聞いたことがありますが、日本国内だけで認められる手段はあると思います。 

川村 私は外国で認められて、それで日本で認められるということは望みもしません。日本で変えたいと思っています。待遇が良いというのは羨ましいですね! 日本は逆に居心地が悪すぎるようです。政府も文化に対して理解がなさすぎです。(*註:芸術文化振興基金もまだ無かった時代です)
ベネックス ああ本当に日本に行って色々な日本の芸術家に会いたかった! 内的にも外的にも繋がれると思います。
川村 今回(ダメになった公演の)仏プロデューサーは言葉の問題を気にしていましたが、内的な繋がりがあれば大丈夫と思いました。演劇だけでなく、小説、映画においても日本の変化、革命の部分を他国の人々に見せられないのが悔しい。まだ歌舞伎などのジャポネズムしか知らないでしょう。フランスは映画を撮るという点でも良い環境ですか?
ベネックス フランス政府は伝統的に制度としては左でも保守的と思います。文化遺産、もう亡くなった芸術家の作品保存に多くの助成をし、現代演劇は小額です。これはおかしなことです。伝統的なそれはこれまで生き残ってきたのだから自ら保存できるということでしょう? フランスで日本の伝統的芸術はかなり紹介されています。ただし、モダンがあるからこそそれを知るために伝統が紹介されるべきと思います。現代の芸術家は戦いながら芸術を生むという感ですね。
川村 同感です。
ベネックス 芸術的にも力関係があります。芸術家としても経済的権力は持たなければと思っています。私は自分の監督作品でも制作に携わります。どんな出資者でも「君に僕の映画を制作させる権利は半分しか与えない」と言っています。フランスで映画を撮ることに問題があるかといえば、それは無いです。
川村 では良い環境にありながらなぜ今撮らないのですか?
ベネックス それは個人的理由(笑)。個人的危機。信じるものがなくなってしまったから。単純、ユニークなアイディアを懸命に撮っていけばいいという動機で撮ってきましたが、今はそれが無い。「何も信じられなくなってしまった男の話」という映画かもしれません。

川村 五月革命の時は何歳ですか?
ベネックス 22歳。
川村 影響は?
ベネックス 医学の勉強をやめました。
川村 「何も信じられない=宙ぶらりんの人間たち」を私は描きたいと思っています。何も信じられないということはニュートラルなんだと思うのです。現代を描くにはそこからではないかと思っています。「信じるもの探し」という風にはなりません。……前回の二作は小説をベースにしていますが次回探しているストーリーはオリジナルですか? また小説ですか?
ベネックス うーん……、まだわからない。
川村 日本の映画ファンのためにあまり知られていない経歴などお話いただけると嬉しいのですが。なぜ映画を撮ったのですか?
ベネックス 根本的理由は……、現実の生活を経験したくなかったから。逃避、拒否の気持ちです。強制的なもの、例えば学校は気持ち悪くなるくらい嫌いでした、成績悪かったし。ただし、その嫌悪感が自分の生活の成功の源となっていると言えますが。逃避、拒否の気持ちを突き詰め、幻想的再構成にいきつきました。

映画でなかったらスポーツ芸術家――スポーツを芸術をもってこなす――になっていたかもしれません。例えばカーレーサーとか。実はカーレースにも何度か出ていまして、ちょっと才能はあったみたいだな(笑)。まあ映画監督になって、とにかく想像力、アブストラクトな構成でもって、日常から出来るだけ遠い世界を創りたいと思っています。

医学の勉強をやめた後12年間助監督をしてきました。ジャン・ベッカー、トランティニヤン、クランド・ベリー、クランド・ディジー……、まあ才能ある監督や無い監督の元で、とにかく技術を身に付け、第一作目の短編「ミッシェル氏の犬」を撮りました。

川村 上の世代にあたるゴダール、トリュフォーはどう思いますか?
ベネックス もちろん好き。私の10〜15歳頃。世代としては彼らは10歳くらい上で”兄貴たち”と同じものは撮りたくないが、同じ道、という感じがしています。好きな映画はシャブロール「いとこ同志」、トリュフォー「大人は判ってくれない」「突然炎のごとく」、ゴダール「勝手にしやがれ」。他全部見たけれど、これらは一時代をマークするすごい映画ですし、演出を作家として成し遂げ、映画に新しい視野を広げました。

ヌーベルバーグ以前、ルノワール、カルネ、ミネリー、マンキウィッツ、ベルイマンも素晴らしい。しかし、彼らは、文学、演劇、オペラの伝統に基づいて自分たちで創った感に対し、ヌーベルバーグは政治的・社会的視野が新しく開けた同時代の映画として生まれたと思います。今、新ジェネレーションの課題は今後監督としての運命を自分で握ることと思います。プロデューサーに媚びへつらうことなく、自分で握ること。

川村 ベネックスさんの世代で批評しあったりというような同世代のコミュニケーションはあるのですか? 例えばリュック・ベッソンさんとの交流とか?
ベネックス ヌーベルバーグと違ってエコール(派)みたいなものはありません。今の社会、15年くらいの差で個人主義の人々を育ててきたのでは? と思います。政治においても党派、運動など、ほとんどなくなりました。共産党はもはや崩壊し、左派系右派系インテリも今は無く、各自個人的体験に基づいています。映画は互いに共闘しているとも言えますが。ただし、同じ傾向のものはあります。ベッソンもそう。彼は私より15歳年下なので同世代感はありませんが。友人としてはベルトラン・タヴェルニエ、クロード・ミレールなど同世代です。もっとお互い歳をとって、個々のもっている不安が解消できてから協力しあうかもしれません。
川村 日本映画が好きと仰いましたが、私はフェリーニ、ポランスキー、ブニュエル、パゾリーニが好きで、私の演劇にも影響を与えています。日本映画監督を挙げるとしたら? 若い監督作品も見ていますか?
ベネックス 新しい作品は残念ながら全然見ていません。今は映画館行ってもいない、悲しいことだがビデオで見てしまう。すぐ忘れちゃうし……、友人のタヴェルニエはとても記憶力があって羨ましいんですが……、小津、溝口、黒澤の作品、偏執狂的に好きなのは「七人の侍」「生きる」。カット・イメージとして勅使河原の「砂の女」。日本好きなので川端の「美しさと哀しみと」の映画化も考えていました。他の監督がその企画をやったが、ひどいものでした。
川村 シャーロット・ランプリング主演の、私も見ました。確かにひどい。
ベネックス 犯罪です。神への冒涜です。心から残念です。大島渚などのプロデューサー、セルジュ・シルベルマンに持ちかけたが分かってくれなかった。今は「蝶々夫人」の続編なども考えています。両者に見出せる共通点、近代日本と古典、若者と中年といったテーマです。これは西洋に対して現代日本の仇討ち、本来の蝶々夫人と違い、叶う結末としたかった。とにかく「美しさと哀しみと」をもう一度映画には出来ないのでとても遺憾に思います。
川村 日本の映画界の状況はとても良くない。若者の奇抜なアイディアなどまず通りません。流行るのはアイドル映画、子供向け、動物映画。助監督の下積みが長いことで新鮮なものが生まれないことも多くあります。作家や演劇人が映画を撮ることもあります。私もいつかチャンスがあるかもしれない。でも私は下積みもテクニックもないのでダメかな(笑)。その時は見た様々な映画の頭の中の体験を武器にして撮るんだと思いますけど。
ベネックス そうですね……、映画は本当の芸術ですから、即興ではできません、勉強は必要ですね。多様性もあり創り方があるわけでもありませんから、撮る才能ある人、無い人といますね。川村さんがどんな映画を撮るのか楽しみです。私の経験をアドバイスしても意味がないので、とにかくやってみてください。初監督で発見することも沢山あるでしょう。一つ言えば「映画は全身全霊を注ぎ、したいことをする」というルールを守るべきです。
川村 分かりました。東京で映画を撮りたいとは思いませんか?
ベネックス もちろん撮りたい! 夢です。「美しさと哀しみと」も東京で撮りたいと思っていましたし、「眠れる美女」を基にしたアイディアもありますが難しいかな。現代日本をテーマにした映画は具体的に撮れると思います。日本に行った時の経験は素晴らしく、過去の恋愛の香り、私の心の一部、永遠の思い出……、ロマンチックなものが撮れると思います。

今までも観察、感じること、印象派的映画を撮ってきましたが、日本にはそれが沢山あると思います。日本は私にとっては言葉も全く解らない迷路のような国で、その中を彷徨いたいという願望です。日本の雰囲気が私には心地よく、圧迫されるような感じは無いです。本当に今回日本に行きたかった! 残念ですが今回は行けません。日本的かもしれませんが、配給会社の招待が無い限り行く気はありません。もちろん一人で飛行機にも乗れますし行き方も知っています。アンカレッジ経由とモスクワ経由があることも知っています(笑)。きっといつか日本にまた行きたい。日本で撮りたい。その時を期待して待っています。

川村 次回作、期待しています。日本にヨーロッパ映画はヴェンダース、ベルトリッチなどは入ってきますがハリウッドより少ない状況で残念です。スピルバーグとかエディ・マーフィーとかうんざり。私はフランス映画、とりわけあなたの映画を楽しみにしています。
ベネックス 次回作は確実にいつか撮ると確信があります、強い意思です。だからこそあまり急いでいません……、急がなければいけないのかもしれませんが。
川村 私もいつか必ず撮る。私もでも焦ってはいません。
ベネックス いつか川村さんのフランスでの公演ができることを期待します。その時はぜひ呼んでくださいね。お互いのことが叶って、その時また会えたらいいですね。
川村 本当にそうですね。またいつか。パリか東京で。

川村毅27歳。ぴちぴち。

ベネックスとのツーショットは紛失…?(涙)

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