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■彷徨亭日乗特別篇 サンパウロ旅情2 |
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それにしてもジェンキンスさんは役者!ってな感じで、よっ脱走屋!とか掛け声かけたくなるねえ。 酒好きなのはあの鼻の頭の赤みから容易にわかる。私の父親とそっくりの鼻だ。 |
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■七月十八日 | No.1046 |
二日酔いで朝食。 さるブラジル人二世が毎朝レストランにくる私を見て、山根に「あの小泉が君らのリーダーか?」と聞いてきたという。白髪から小泉純一郎との類似を海外で指摘されたのはこれで二度目。 前はメルボルンの新聞で書かれた。うれしくない。 14時半、劇場でテレビ局の取材。添田、笠木、柊がつきあい、寸劇をやってインタビュー。 インタビュー前、「好きな食べ物はとか?」とふざけると、ああそれはいい質問ね、と女性記者。それでまたシュラスコと答える。 マルシアが地元の新聞を持ってくる。 昨日のメンバーの温泉訪問の記事だ。写真入りで、「日本の俳優たちはプールを舞台に変えた」と書いてあるという。大きなプール型の温泉で実に楽しかったらしい。テレビ局も取材に来てやらせのサンバを踊らされたという。 行けばよかったと後悔した。もっとしみったれていてお互い顔つきあわせて入っていなければならないものと想像していた。 ホテルに戻ると急に猛烈な下痢に見舞われる。取材後に劇場の冷水器から飲んだ水のせいらしい。 20時、劇場のスタッフ、マルシア、バスのドライバーも入っての記念撮影をし、マルシアから「こうして日本人と仕事できたのはうれしい。みんながこのティーファクトリーの人々が好きです」とブロンズ像をくれる。これはなんでも演劇祭がコンペティションだった頃に優勝作に与えられたもので、この劇場が大事にとってあったのだという。 私、不覚にも涙がちょちょぎれそうになったよ。 21時開演。 立ち見が出るほどに満席。 カーテンコールに出て投げキッス。パンツはクソまみれ。 ロビーに出ると数日前にレストランで紹介されていたサンパウロの劇界の巨匠、当演劇祭にもなんと三日間、それぞれ六時間の劇を上演するという演出家がブラボーと私を抱きしめ、頬にキッスをくれ、手を握り締め、左胸を撫ぜる。 これからどうするのだと聞くので、多分レストランに行くというと、では後ほどと別れる。 そういうわけでリオ・プレト公演は終わった。 下痢が収まらず、夕食はキャンセルしてホテルへ戻る。 サンパウロ行きのフライト時間が早いので横になると寝入りばな電話で起こされる。どうやらフロントらしく、 「今ポローニアス役の人にモーニングコールを頼まれたが名前を忘れたので教えてくれ」 という。 ポローニアスって誰がやってたっけと私は考えた。同時にむらむらと怒りがこみあげてきた。 なぜ私にこんなことを聞いてよこすのだ。切ってしまおうかと思ったが、彼が明日寝過ごしてはかわいそうだ、それにしてもなんてホテルだと思いつつ、しかしこのフロントマンは劇を見たのか、なかなかのホテルマンだとか色々錯綜させつつ、ところでポローニアスって誰がやってたっけと考え続け、やっと辿り着いて告げると、ファーストネームは?と聞いてくる。名前が出てこない。やっと思い出すと、今度はスペルを聞いてくる。 目が覚めてしまった。と思ってむかむかしたが、存外すぐまた寝た。 |
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■七月十九日 | No.1047 |
午前4時半、起床。 5時半、チェックアウト。 6時半、飛行機でサンパウロへ。さらば、リオ・プレト。 7時半、サンパウロ着。 小雨が降り、寒い。 さてサンパウロにお客さんは集まるだろうか。 私たちがリオ・プレトに来る一週間前より制作の平井はサンパウロ入りし、公演の準備、段取りに文字通り奔走した。 平井が着いた時点で主催のSESCの最終決定はまだ出されていなかったという。 平井との会議で日時等々が決定していき、あと二週間ということで情宣に走った。そのおかげでリオ・プレト滞在時、全国紙にしてブラジルの有力紙フォーリャにも記事が載ったのであった。国際交流基金、日本領事館の方々にも随分と助けてもらったという。 リオ・プレトに来てから平井は気温の極端な差のせいもあり、ぶっ倒れてほとんど寝て過ごした。 10時半、交流基金で記者会見、クリスティーナ、ミチコさん、ジョーさん、ニッケイ新聞の小林君、あとテレビ局が一社。 テレビ局のインタビュー。クリスティーナとアフタートークの打ち合わせ。 近くの日本食レストランで食事。 とにかく寒い。ホテルにも暖房というものがない。暖房が出るかと思って冷房用のエアコンと無駄な格闘をした。 そもそも暖房という発想がないということらしい。 15時、劇場であるSESCヴィラマリーナにバスで行く。徒歩で行ける距離なのだが、機材があるので。 いい劇場だ。 昨夜の深夜の電話のことを当人に告げると、本人はモーニングコールなど頼んでいないという。 しかし、謎はすぐ解けた。 昨日私がキャンセルしたレストランの夕食の席にはくだんの巨匠がワイン五本を用意して待っており、われわれの舞台を絶賛していたという。女性陣にはまったく興味を示さず、巨匠は彼にもっと飲もうと誘ったが、彼は明日朝早いのでと辞退したのだが、夜中の二時ごろに巨匠から今から部屋に来ないかと電話があったという。 これですべて合点がいった。 昨夜のホテルはフロントからのものではなく、恐らく巨匠に命じられた彼の劇団員で、ポローニアスの彼の名前を知りたいがための策略で、私から彼の名前を知ることができた劇団員はそれを巨匠に告げることができたというわけだ。まあ、この堂々たる手口からいってこういうことは日常茶飯だと想像できる。 さて、果たして彼は電話のお誘いに答えたということだ。 ホテルを出るとタクシーがすでに待機しており、山のなかにはいっていったときはさすがに怯えたという。そこにはホテルがあり、着くと劇団員がこちらでごぜーますウッシシ、デハゴユックリと部屋を案内する。 部屋は暗く、巨匠がパジャマ姿でダブルベッドに横たわっている。 彼はとりあえず明かりをつけてくれといった。 それから巨匠は『ハムレットクローン』のことを語ったというが、すべて理解していて実に聡明な人だったという。 例えば「確かに9・11以後資本主義とコミュニズムの関係について考えることは重要なことだ」という言葉とか。 巨匠は時折フランス語も交え、会話が巧みで、彼ももうどうにでもしてってな気分にもなりかけたが、自分は日本に彼女もいるのでとかいって逃れ、自力でタクシーを呼んで部屋に帰ったのは明け方だったという。 この話を私を含めて数名で聞いていたのだが、大爆笑で、それから各々のゲイ体験、こうやって誘われたことがあるとかについて語り合ったのだった。 私はなにもこのことを書いて巨匠を糾弾しようというわけではさらさらない。 おもしろい! 巨匠、あんたのこと好きだよ、でもぼくだったら、ぼくが呼ばれていたら、ぼくどうしてたろう? そうこうしているうちにリオ・プレトから運ばれてきたセットの壁が搬入されてくる。 壁の塗装をするペインターのジュリオは壁と一緒にリオ・プレトからやってきた。 このゲイのジュリオも舞台をたいそう気に入ってくれてそのことばかりを語り続けているという。 今日は日曜なので舞台の仕事は20時まで。 私は18時半に出て、ショッピングセンターで中華と生ビールを飲む。生はビールといっても通じず、ショップというんだったと思い出す。 |
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■七月二十日 | No.1048 |
一度も起きずに11時間眠り続け、体調も戻って元気だ。 数名、風邪である。気温差のせいだ。Tシャツで過ごしていたのがいきなりセーターに皮ジャンだ。 相変わらず元気なのは山根、福士。 雨はやんで薄日が差していて、昨日より過ごしやすい。 小松がさっそく朝の散歩で劇場への道を見つけたらしく、道筋を聞いた笠木から教わって街を歩く。 煙草などを買い、店と人々を観察しながら歩くと幸福感が訪れる。 しかし教わった方向を行けども行けども劇場は現れず、断念して戻る。笠木にわかったものをなんでわからないんだとショックを覚える。 ホテルの小松に直接聞き、再び向かうがやっぱりわからない。 途中でオバサンに聞くとついてこいというので行くと全然違う道じゃねえかよ。 劇場に着くと今西さんがにやにやしていて、「道わかりました?」と聞くので人に聞いてわかったというと、 「小松、大うそつきですよ」という。 小松と行けば劇場に着くと信じていた今西だが、小松は普通のアパートを劇場と思い込んでいて、そのアパートを開けてくれと大騒ぎし、終いには日本語のわかる住人まで出てきて、やっと辿り着いたのだという。 本当にこの小松という男は堂々と自信を持って間違える。 劇場でセットの具合を確認する。 その後、地下鉄に乗ろうとすると大野が泡を食って私を追ってきて、この地下鉄の劇場側の出口はどっちだと聞いてくる。出ると違う風景だと困るという。適当に答えておく。 リベルタージ駅で下り、東洋人街を歩き、セー方面にいってセー寺院を覗き、広場を歩く。警官と露天商のような人々がにらみあっている。一触即発の雰囲気だ。 古本屋を見つけてひっかける。 東洋人街に戻り、二月のときより狙っていた居酒屋金太郎に入る。 ビールにきんぴら、ナスの和え物、オデンを頼む。隣に日本人のおっさんがきてわいわいとしゃべっている。 おっさんたちに声をかけ、明日の公演の宣伝をする。 そのうちにカイピリーニャを飲み始める。 おっさんのなかのひとり水野氏はトヨタの子会社の支社の社長を勤めて十数年になり、今は退職して年金生活だが、いまさら日本に帰っても友達もいないので、妻子を名古屋に置いてサンパウロに住み続けているという。 物価は安い、酒もうまい、ネーチャンたちは気立てがいい、ゴルフも安い、さいこうですぜ。 お互いカイピリーニャをがんがんやる。 「カイピリーニャは田舎娘という意味でしてね、口当たりはいいが後が怖いというわけですわ。いきなり妊娠しましたってなことね、ケケケケ。でもこれやりながら、女の子のティーバッグながめてビーチにいるとサイコーですぜ」 「強盗に何度もあってもここがいいんですわ。強盗もね、おとなしく金出せば、オブリガート、セリョールって礼儀正しく去っていきますわ」 私は水野氏と意気投合した。劇場に戻る時間になったので、立ち上がると車で送るといい、傍らにいた小林さんというおっさんに車出せといい、小林さんの車で劇場に向かうが、これがなかなか着かず、途中で人に聞きまくり、20時半ほどでやっと着くと、ちょうど帰るところだった人々がロビーに見える。 水野、小林両氏をみんなに紹介すると、水野氏ここでもしゃべるわしゃべるわ。 明日の公演にはぜひ来たいといい、去る。 私も酔っ払っていたからここらのあたりよく覚えていない。 23時、ばったり倒れる。 |
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■七月二十一日 | No.1049 |
二大紙、つまり日本でいうと読売、朝日らしいフォーリャ、エストラーダにリオ・プレト公演の劇評が載ってるとという。 さあて今夜の入りはどうだろうか。 嫌な情報を聞いた。今夜21時、ちょうど開演と同じ時刻にブラジル・ウルグアイ戦のサッカーがあるという。 サッカー、私のトラウマ。ティーファクトリーの旗揚げ『アーカイヴス』は2002年のワールドカップにやられたのだった。 昼間、サンパウロ大通りをうろつき、本屋などをひっかける。 ニッケイ新聞に私のインタビューが載っている。 17時、檻のフォーメーション。 18時、ゲネプロ。 21時近く、人が集まってくる。 昨日の水野さん、交流基金のジョーさん、ミチコさん、吉井所長、大野さん、領事館の渡辺さん、ニッケイ新聞の小林君、高木社長は入りの良さを見て親指を立て、「ボン!」。 果たして700席の劇場がほぼ満席に埋まったのだった。 開演。 無事終了。 スタンディングの拍手が響く。 その後、クリスティーナさんとアフタートーク。 三分の一ほどのお客さんが残り、いろいろ質問してくる。 この手のトークでこれだけの人が残ることは珍しいということだ。 23時過ぎ終了。 いろいろな人に感謝の挨拶。 1時過ぎ、レストランに着き、乾杯。 3時過ぎ戻り、4時頃に就寝。 |
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■七月二十二日 | No.1050 |
リベルタージに向かい、セーを抜けてサン・ベント駅まで歩く。駅の近くの露天の古本屋で私はブラジルのエロマンガのようなもの、平井は時計屋で腕時計を買う。ここいらあたりはガイドブックなどでは危険区域なのだが、時計屋の旦那はベルトの長さなど不器用な手つきで調節してくれて親切だ。 東洋人街でカレーとラーメンを食べる。 ラーメンなどウドンのようであり、カレーも不思議なものだ。 19時、ホテル、チェックアウト。 サンパウロ空港から深夜0時半、離陸。 |
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まあいい旅公演であったわけだ。 いい思いをした後には必ずいやなことがあって人生は帳尻を合わせていくものだから、これから少し慎重にならなければ。 帰国後、数日して米倉からメールが届く。 彼女は小道具の返却のためにリオ・プレトに戻ったのだが、会う人ごとに公演よかったと声をかけられるという。 市立劇場のスタッフは今回の日本人との仕事は一生の思い出だともいってくれているという。 彼女はこれを終えていったん帰国する予定でいたのをもう少しブラジルに留まって仕事をすることにしたという。 日本以外で仕事があるということはいいことだ。 いいんじゃないの、と返信した。 ところでこれを書いている今は8月も入って三日目だが、『渇望』の稽古が始まった。 帰国して一週間は体も心も頭も停止状態で2キロ太ってしまった。やっと始動だ。 ガッツ石松の本が売れているという。本人も驚いていて、 「なんでこんなに売れるの。まあ、難しいこと考えたくねぇんだろな。暑いしな」 というコメントがサイコーだ。 この本は石松の娘さんが監修しているのだが、この娘さんも親ゆずりの天然ボケで、父の発言のどの部分がおもしろいのかわからなくて苦労したという。 世界の三大珍味はトリュフとフォアグラとキャタピラの間違いがわからなかったのだという。 「むしろキャタピラを知ってる父に感心しちゃいました」 ってすごい親子である。好きだ。 |
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