41歳の私は未だふらふらとしている。
落ち着きがなく、瞬間湯沸かし器の気味もある。
だからこの日記を彷徨亭日乗と呼び、東村山の
住まいを癇癪館と名付ける。
こういった人間である。

No.161〜180 バックナンバー 最新

■十月某日

No.141

 秋晴れね。昨日の酒が残ってしまっている。
研究室で来年の京都公演のことで加藤ちかと打ち合わせ。その後、シンジケートもやって来て、インタビュー、打ち合わせ等々。
見る時間もないはずなのになぜか突発的にゴタールの『新ドイツ零年』を再見したいと思い、ビデオを借りる。
夕刻、仕込みをしている下北沢スズナリへ。
■十月某日

No.142

 スズナリ、明かり作り。晩まで。
帰って来て『男はつらいよ』のビデオ録画を見る。東京12チャンネルで全作品を不定期に放映しているのだが、この度再見できた初期の数作は弛緩したただの観光映画に堕した後期と比べると同じシリーズとは思えないほどの、すがすがしくみずみずしい映像だ。
殊に望郷編。かたぎになろうとして浦安の豆腐屋に住み込みで働く寅次郎がそこの娘にふられて柴又に戻り、さくらに自分はやはり一生涯かたぎにはなれないと悟ったと語る件りには心底心を動かされた。マドンナは長山藍子が演じていて、例によって寅さんどうして急に出て行っちゃったんだろうとかいうけど、どうしてこのシリーズのマドンナってのはこう鈍感な女達ばかりなんだろね、それとも要するに底意地が悪いってことか。
私見によればシリーズが面白いのは『とらや』のおいちゃんを森川信が演じている作まで。森川信が亡くなってからおいちゃん役は色々な男優のあいだを迷走するのだが、寅次郎役に渥美清以外など考えられないと同じくらいの重要さにおいておいちゃん役は森川信に尽きる。寅次郎とおいちゃんは同じDNAを持っている。すなはちおいちゃんが寅次郎を馬鹿というときは自分のことを言っているのであり、外から帰って来た馬鹿に潜在されていた馬鹿が触発されて表面にまで現れ、そうして『とらや』の平和がガタピシになるというのが、『とらや』の騒動の構造である。
だから、おいちゃんは寅次郎に負けないほどの能天気さを備えていなければならない。後年の作のなかのおいちゃんは寅次郎の失態を眺めるただ冷静な観察者であるに過ぎない。そこでいきおい『とらや』はただ寅次郎を排除する場所としてしか機能しなくなり、自然と柴又周辺のドラマは減って、地方に飛んで観光映像ばかり撮らざるを得なくなる羽目に陥る。関東近郊から離れると途端に寅次郎がつまらなくなる、説教ばかりやり始めるというのが私の感想だ。
望郷編の次の帰郷編もいい。
素京さんの話によれば森川信は芸人として活躍していた大昔、エノケンが主宰したサーカス小屋で結城座と共演したことがあるという。
ついでに寅次郎絡みで言えば素京さんの実の弟さんは寅次郎みたいな性格の人で、つい先日も朝急に電話をしてきて「ああ、姉さん生きてたか」とか言うので、「なんだい、生きてなきゃ電話に出るかい」と応じると、「姉さんが死んだ夢を見た」
この人は幼少の折り『乃木将軍と辻占売り』という映画で子役として主演し、後年映画の録音技師をやっていた人だという。
そこまで話が及んだ際、私はその辻占売り(つじうらうり)とは何ですかと尋ねた。吉原をはじめとする花柳界で昔夜になると道に鳴子を鳴らしながら少女の恋占い売りが現れ、店や家々の軒先を回ったのだという。
まったく結城座は物語の宝庫である。
こういうことを稽古の合間に聞きながら日々を過ごしていたのである。
■十月某日

No.143

 スズナリで場当たり、第一回目のゲネプロ。
■十月某日

No.144

 ゲネプロ、二回。物事はスムーズに運ばれる。舞台監督の黒沢と演出助手の鈴木の功績である。
■十月十九日

No.145

 初日。大問題はないが、少し裏に問題あり。要するに本番の空気と時間に結城座の若手がついていけていない。孫三郎さん、一糸さん、真剣に若手にダメを出している。
ロビーで初日の乾杯。その後『a亭』でスタッフ達と紹興酒。酔っ払う。
■十月某日

No.146

 なんやかやと小問題あり。
帰宅してビデオで『ザ・セル』を見るが、くだらなくて屁も出ない。その後『新ドイツ零年』を見る。
■十月某日

No.147

 なんやかやと小問題あり。
母親見に来る。下北で寿司食わせる。
風邪気味。鼻水とくしゃみ。
早稲田に寄る。
■十月某日

No.148

 月曜日。雨。風邪ひどく、役者さんにうつしては洒落にならないと劇場入りを休む。終日寝ている。怖いほどによく眠れる。体が腐るほど眠り、夕刻今年初めての灯油屋の軽トラックが来るので灯油のポリを取り出し買い求める。癇癪館の冬の儀式である。
■十月某日

No.149

 一気に秋晴れ。体調良し。
扇風機を片付け、秋から冬にかけての思索、執筆に備える意味で書斎を掃除する。
■十月某日

No.150

 秋晴れ。今日は水曜、マチネで終わり。
六時半、新橋のヤクルトホールで今年カンヌでグランプリ受賞という『ピアニスト』を見る。イザベル・ユペールってのは相変わらず大したたまだね。映画はウィーンが舞台なのだが、なぜかフランス俳優達によるフランス語が話され、違和感を覚える。裏表の落差が激しいオーストリア社会ならではの物語なのだが、フランス語でしゃべられると、時折フランス人の得意の反倫理的悦楽主義のストーリーと錯覚してしまう。フランス語にしたのはカンヌへの戦略もあってのことなのかと、多分これは邪推だろうが。
■十月某日

No.151

 早稲田は体育祭なので休講。
スズナリに開演間際に入る。孫さん冴えず。終演後聞くと下痢がひどくて止まらないのだという。学生が来ていたので、体育祭って本当に体育をするのかと尋ねると、ウェイトリフティングで優勝したとかでキャンパスで色々催しがあったらしい。早稲田は今は文化祭もないことだしな。
見に来てくれた吉田鋼太郎、小林恭二、川西蘭、スパのハッシーらと飲む。演劇人が徘徊しない飲み屋を慎重に検討した。
川西と『風花』へ。朝まで。
■十月某日

No.152

 小学館で『せりふの時代』の編集会議。神保町のゴルドーニに寄り、依頼して見つけてもらっておいた三好十郎の著作を数冊購入。
スズナリに早めに着くと、知恵さんが真剣な顔付きで近づいてくる。孫三郎さんの下痢、止まらず、脱水症状で点滴を受け、検査の最中ということ。もしや孫三郎さんが出演不能だったら公演は無理だよねの言葉に、そりゃあ無理だよと即座に答えてはみたものの、少し考えて、やはりやれないだろうかと考え直し、皆で熟考。私が袖から孫三郎さんの台詞をしゃべり、場面毎、手の空いている人形遣いが人形を使い回すことで可能ではないかという結論。
そうこうしているうちに病院から孫三郎さん現れる。スズナリの階段を上がるのにもひと苦労の様子。しかし今夜はとにかく出演し、明日のことは終演後の具合で決めることに。
孫三郎さん、なんとか乗り切る。本人は明日も大丈夫といって帰宅するが、とにかく何が起きても公演休止は避けようと、人形遣いの手回しの手順を話し合う。
私は私ですっかり出演の気分だが、黒沢の「こういうのは準備しとくと案外何も起きないものなんですよ」の言葉に深く同感する。そうなのだ。予測可能の事態はけっこう平穏に乗り切れるものなのだ。新人、若者劇団員が怖いのは、彼らがやらかす事が予測不能の常識外のことであるからなのだ。
が、帰り道、孫三郎さんが演じている数役の声色の使い分けを考える。
いやあ、芝居ってのはやはり楽には終わらせてはくれない。
だから面白い。
■十月某日

No.153

 午前中、鈴木から孫三郎さん出演可能の電話来る。
舞台、マチネ、無事に終わる。楽屋を覗くと存外孫三郎さん元気そうで、「明日は爆発します」と意味不明のことを言う。
下北の街に出てラーメンを食べると急激に眠くなる。
直帰して昼寝などし、『ガス燈』を見る。
■十月二十八日

No.154

 千秋楽。客席、満席。昨日に続けて来年結城座の面々が出演する『屏風』の演出家フレデリック・フェイスバッハが見に来ていて痛く気に入ったようだ。あんまり演出プラン、真似すんなよ。
孫三郎さん、つらいだろうが終演後の小宴会にも付き合う。
朝まで飲む。
■十月某日

No.155

 終日、寝ている。
■十月某日

No.156

 『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(ラナ・ターナー版)、『現金に体を張れ』を見る。
すっかり夏の暑さが過ぎ、しんとした気分の日々の到来である。
秋ね。(これは『近代能楽集』のなかの『班女』の台詞)ニューヨークの秋が恋しい、なんてけっこうミーハーね。
■十一月某日

No.157

 早稲田の講義。ウースター・グループについてしゃべる。色々と忙しく学内を小走りする。
十一月中旬に計画していたニューヨーク行きを断念する。色々なんやかやとあって日程的に無理と判明した。
■十一月某日

No.158

 中野の『廬』へ。牛蛙を食べさせる店というのを耳にして。文学座に書き下ろした『牛蛙』の縁で、一度食べておこうと思ったから。刺し身を食べる。隣にいたイトウさんという老人と話し込んでしまう。イトウさんは銀座の大根河岸の店の若旦那として育ち、大蔵省に勤めていたという。昭和史に関する色々なことを聞き、煎餅までもらってしまう。
ほろ酔いで帰る。
■十一月某日

No.159

 文化の日。雨。終日本を読み、寝たり起きたり。
夜、『黒い罠』を見る。ああ、傑作!これが公開当時はまるで無視されていたとは!映画はそれでも数十年後にこのように蘇ることができる。それにしてもチャールトン・ヘストンという俳優は何に出ていてもどこか邪魔くさい。無用に体が大き過ぎるし、頑張り過ぎだ。もっといい加減にやって欲しい。ミッチャムやボガートのように。
■十一月某日

No.160

 晴れ。引き続き寝たり起きたり。久しぶりに『笑点』を見る。
夜、NHKアーカイブスで『神の小さな汚れた手』というのを見る。島かおりの可愛らしさと昭和三十年代の町並みの光景に心を動かされる。

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